言いかけた「ただいま」
別れてから初めての夜のことです。
いつも通り仕事を終え、いつも通りの時間に帰宅しました。玄関のドアを閉めた瞬間、反射のように「ただいま」と言いかけて、声を飲み込みました。返ってくるはずの「おかえり」が、もうないことを思い出したのです。
部屋は何も変わっていません。家具の位置も、置きっぱなしのクッションもそのままです。それなのに、空気だけが違って感じられました。冷蔵庫を開けると、一人分の食材しか入っていません。いつもなら「これ食べる?」と聞いていたはずなのに、その相手がいないだけで、台所は急に広くなったようでした。
レンジに入れたお弁当が回る音だけが、静かな部屋に響きます。テレビをつける気にもなれず、ただ機械音を聞いていました。
普通の夜のはずなのに、どこか現実味がなく、少しだけ足元が頼りない気持ちになりました。
そのとき、ふと一人暮らしを始めたばかりの頃を思い出しました。何もかもが自分ひとりの音だった日々。
あの頃はそれが当たり前でした。けれど、誰かと過ごす時間を知ってしまったあとの静けさは、思っていた以上に広く感じられるものなのですね。
特別な出来事があったわけではありません。ただ、いつもと同じ夜が、少し違って見えただけ。それでも、その違いは確かに胸に残りました。
<編集追記>
しまいきれない春の想い出は、こうした静かな夜の中にそっと潜んでいるのかもしれません。言いかけた「ただいま」は、しばらく心の中に残り続けるのでしょう。
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いつも通り仕事を終え、いつも通りの時間に帰宅しました。玄関のドアを閉めた瞬間、反射のように「ただいま」と言いかけて、声を飲み込みました。返ってくるはずの「おかえり」が、もうないことを思い出したのです。
部屋は何も変わっていません。家具の位置も、置きっぱなしのクッションもそのままです。それなのに、空気だけが違って感じられました。冷蔵庫を開けると、一人分の食材しか入っていません。いつもなら「これ食べる?」と聞いていたはずなのに、その相手がいないだけで、台所は急に広くなったようでした。
レンジに入れたお弁当が回る音だけが、静かな部屋に響きます。テレビをつける気にもなれず、ただ機械音を聞いていました。
普通の夜のはずなのに、どこか現実味がなく、少しだけ足元が頼りない気持ちになりました。
そのとき、ふと一人暮らしを始めたばかりの頃を思い出しました。何もかもが自分ひとりの音だった日々。
あの頃はそれが当たり前でした。けれど、誰かと過ごす時間を知ってしまったあとの静けさは、思っていた以上に広く感じられるものなのですね。
特別な出来事があったわけではありません。ただ、いつもと同じ夜が、少し違って見えただけ。それでも、その違いは確かに胸に残りました。
<編集追記>
しまいきれない春の想い出は、こうした静かな夜の中にそっと潜んでいるのかもしれません。言いかけた「ただいま」は、しばらく心の中に残り続けるのでしょう。