雨の日に差し出された手

(天王寺区 30代 女性)

春先のある日、強い雨が降っていました。
帰宅途中、自転車のチェーンが外れてしまい、突然ペダルが空回りしました。雨は容赦なく降り続き、手はすぐに濡れて冷たくなります。周囲に人も少なく、どうしていいかわからず、ただ途方に暮れていました。

そのとき、近くを歩いていた年配の男性が声をかけてくれました。「どうしたんや」と穏やかな口調でした。事情を話すと、ためらうことなく自転車をのぞき込み、手が汚れるのも気にせず一緒にチェーンを直してくれました。油で黒くなる指先よりも、直さなければという気持ちのほうが先にあったのだと思います。

やがてチェーンは元に戻り、男性は「気ぃつけて帰りや」と優しく言って歩いていきました。名前も聞けないままでしたが、その背中は雨の中でもどこかあたたかく見えました。

ほんの短い出来事です。それでも、見ず知らずの人が自然に手を差し伸べてくれたことは、今も心に残っています。雨の日になると、あのときの光景を思い出します。そして、私も困っている人を見かけたら、あのときのようにさりげなく助けられる人でいたいと思うのです。


<編集追記>
しまいきれない春の想い出は、濡れた手の感触とともに胸の奥に残り続けます。
サブクロのクローゼットのどこかにしまわれた品のように、ふとした瞬間にそっと取り出されるのでしょう。
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