クローゼットの奥は「はじまり」の一着

(港区 30代 女性)

一人暮らしの部屋を引っ越すときのことです。
荷造りもほとんど終わり、最後にクローゼットの奥をのぞき込んだとき、見覚えのあるコートが出てきました。社会人になって最初の給料で買った、少しだけ安いコートです。

特別高価なものでもなく、流行の形でもありませんでした。背伸びをして選んだわけでもない。ただ、「自分のお金で買った」という事実がうれしくて、何度も鏡の前で袖を通したことを覚えています。

けれど実際には、たくさん着たわけではありませんでした。忙しさに追われるうちに季節が過ぎ、別の上着を選ぶことも増えました。それでもなぜか、そのコートだけは捨てられなかったのです。

ハンガーから外してみると、少し重みがありました。布の重さではなく、あの頃の自分の気持ちが残っているような重さでした。新しい街、新しい職場、慣れない毎日。不安と期待が入り混じっていた、あの春の空気。あの一着は、きっとその象徴だったのだと思います。

結局、段ボールの一番上にそっと入れて、新しい部屋にも持っていきました。でも、引っ越してからも袖を通すことはほとんどなく、またクローゼットの奥に掛けたままになっています。

それでも、手放すことはできません。あの頃の自分を否定するような気がしてしまうのです。服は増えていくのに、想い出は減らない。むしろ年月とともに、静かに輪郭を帯びていくものなのかもしれません。


<編集追記>
しまいきれない春の想い出は、クローゼットの奥でそっと季節を越えていきます。
サブクロでお預かりしているお洋服の中にも、そんなはじまりの一着が静かに眠っているのかもしれません。
chevron_left 前のページに戻る