「名前を知らない春」の夜 

(都島区 30代 女性)

引っ越しの日の朝、部屋の中はほとんど空っぽになっていました。
家具は運び出され、段ボールがいくつか残っているだけ。何年か暮らしたはずなのに、部屋は最初から何もなかったかのように静まり返っていました。

最後にゴミ出しをしようと袋を抱えて外に出たときのことです。階段の途中で、何度も顔を合わせていた隣の部屋の人とばったり会いました。挨拶は交わすけれど、名前も知らない関係。けれど、その距離感がどこか心地よくもありました。

私が大きなゴミ袋を持っているのを見て、相手は少し驚いた顔をして、それから穏やかに言いました。

「引っ越すんですか。気をつけてね」

たったそれだけの言葉でした。でも、その一言が胸の奥にすっと入り込み、思いがけず涙が込み上げそうになりました。

特別に親しくなったわけではありません。立ち話をしたことも、連絡先を交換したこともありません。
ただ、朝の「おはようございます」や、夜の「こんばんは」を交わしてきただけ。それでも、確かに同じ時間を共有していたのだと、そのとき初めて実感しました。

都会では、隣に誰が住んでいるのかさえ知らないことも珍しくありません。だからこそ、その何気ない一言が、驚くほど温かく感じられたのかもしれません。名前を知らないまま終わる関係もある。でも、だからといって、そこに何もなかったわけではないのです。

部屋の鍵をポストに返し、最後にもう一度建物を見上げました。あの廊下や階段には、声に出さなかった感謝が、きっと少しだけ残っています。
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