浪速区で飲んだ最後のお茶

(浪速区 30代 男性)

数年前の春、仕事の都合で東京へ転勤することになりました。
浪速区のマンションを引き払う準備に追われ、部屋の中は段ボールだらけ。住み慣れたはずの空間が、少しずつ“よその場所”のように見えていきました。

慌ただしく荷造りをしていたある日の午後、インターホンが鳴りました。ドアを開けると、同じ階に住むおばあさんが立っていました。普段はエレベーターで会えば「こんにちは」と挨拶を交わす程度の関係です。

「これ、最後に飲んでいき」

そう言って、温かいお茶と手作りのお菓子を差し出してくれました。引っ越しのことをどこかで聞いたのでしょうか。
少し照れたように、「向こうでも無理せんとね」と続けました。

その一言に、胸がじんとしました。特別に親しかったわけではありません。それでも、同じ建物で暮らしていたというだけで、こんなにも温かい気持ちを向けてもらえるのだと知りました。

部屋に戻り、お茶を口に含むと、ほっと力が抜けました。新しい環境への期待よりも不安のほうが大きかった時期でしたが、そのぬくもりが、少しだけ背中を押してくれました。

春は別れの季節だと分かっていても、浪速区で過ごした日々が急に愛おしく感じられました。コンビニの明かりも、見慣れた通りも、あのマンションの廊下も、もうすぐ“思い出”になるのだと実感しました。

あのとき受け取った優しさは、今も忘れられません。


<編集追記>
しまいきれない春の想い出は、街の中で交わしたささやかな挨拶の積み重ねなのかもしれません。サブクロに預ける荷物と一緒に、あの日のお茶のぬくもりも、新しい暮らしへ運ばれていったのでしょうね。
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